どうなる、この手術!? [腕神経そう麻痺]
入院から手術当日までは、面白くないので割愛します。
全身麻酔で手術が始まったのは、8月の暑い日で9時頃だったと覚えています。
そして麻酔が切れたのは翌朝でした。
記憶が丸一日飛んでいるので、
「あれ、終わったの?これから手術開始だっけ?」
軽いタイムスリップ気分だったのを覚えています。
結論から言うと、やはり『右腕神経引き抜き』でした。
そして手術時間は13時間強の長いものとなりました。
総数100数十針の傷跡が残ったのが、
いかに大変な手術だったのか想像できます。
なぜ長時間の手術になったかというと、
ある『異常事態』があったためです。
手術中に初めて分かった事ですが、
通常、腕の神経は1本にまとまって脊髄に繋がっています。
しかし私の場合は『先天性の奇形で腕の神経が2本に分かれていた』そうです。
1995年時点では、過去に類似の事例は皆無でした。
文字どうりの特殊な症例です。
肩、肘、手首を動かすメインの神経は引抜けて使い物になりませんが、
指先の一部を動かす、もう一本の方は完全に抜けず僅かに脊髄に繋がっていました。
僅かでも繋がっていれば、時間が掛かるものの自己修復で再結合する場合があります。
執刀した先生は生き残った神経の再生に賭けて、
肋間神経の肘関節への移行を実施。
そして無事に終了。
神経接合は顕微鏡で見ながら結合するので、長時間の集中作業で本当に大変らしいです。
心から感謝いたします。有難う御座いました。
翌日、手術の結果を聞きました。
手術は成功したものの、今回繋いだ神経の機能が回復するまで1年程度はかかること。
それまでは手術の成否が分からないこと。
神経が結合するまで2~3ヶ月は右腕を動かないように固定し続けること。
右肩にも脱臼防止の為、ワイヤー埋め込みがしてあること。
傷跡の化膿や合併症の恐れがあること。
辛いリハビリも必須。
問題が山積みです。
でも今出来る事は全て終わりました。
あとは治療の結果が出るまで、ただ耐えるのみです。
人事を尽くして天命を待つ。
えっ?そうなの? [腕神経そう麻痺]
前回、前々回と真面目に書いておりましたが、
今回からは内容の重さの割りに、軽い語りになるので事前にお知らせします。
呆然とした事故直後と、その後の心境の変化に合わせて文体も徐々に変えています。
事故直後に入院していた病院から、ひとまず退院。
右腕の手術をする慶應病院へ、精密検査のために通います。
改札出てから徒歩1分。
退院後の一ヶ月は毎週のように慶應病院に検査に通っていました。
この後の手術入院と合わせれば、実質3~4ヶ月入院している事になります。
10数年前だと、神経切断の専門治療が出来るのが、日本に数箇所しかなく、
慶応病院は腕の再生分野のトップです。
事前に「バイクの事故では身体麻痺は多いし、
ここは症例も多いから任せて安心」と聞いていました。
それゆえ、この時点では「ここに任せれば大丈夫」と楽天的に考えていました。
検査もMRIにCTスキャン、筋肉に流れる生態電流を測る筋電図など、
次々と動かない右手を調べ続けました。
そして検査結果が出揃ったので、自分の右腕がどうなっているのか?主治医の先生に尋ねました。
その答えは『神経が切れたのは間違いない。でも正確な状態も何処まで回復するかも分からない』でした。
えっ?そうなの?
じゃあ、右腕が動くようになるか分からないの???
それを質問すると回答は、
『神経切断なのか、脊髄からの神経引抜きなのか、手術で開けてみないと調べられない』との事。
ただの神経断裂なら、回復に時間はかかるけど治療可能。
でも脊髄から神経引抜きだったら、再生方法無し。
『ALL OR NOTHING』
現実は予想以上に厳しかった。
治らないの?右手は使えないままなの?どうなっちゃうの私、、、
突きつけられた事実に、頭が真っ白です。
絶望すると目の前が真っ暗になるのに、考えられないほどの衝撃を受けると頭が真っ白になる。
無駄な知識が増えました。
検査結果に気になる点がるので、来週再検査。
再来週には今後の治療の詳細を説明するので保護者同伴。
1カ月後に手術の予定。
その日は放心状態で帰宅しました。
この日、事故後初めて絶望を感じました。
そして翌週。再度、筋電図の検査です。
その時に知らされたのは、
『症状は神経引抜きなのだけど、なぜか中、薬、小指の3本には動かせそうな結果が出ている』
前例の無い症状で、何が起こっているか想像できないそうです。
さらに翌週。
親と一緒に検査結果と手術内容の説明を受けました。
・脊髄からの神経引抜きの可能性が高い。
・右肩には脱臼防止に金具を入れる。
そして手術中の検査で、指先の関節が動かせる可能性があれば、
右胸の肋間神経を肘の神経につないで曲がるようにする神経移行術を実施。
(肘が曲がると日常生活が格段に楽になるためです)
手術の時間は長時間になる見込み。
ようするに、出たとこ勝負で最善の効果を引き出す手術になります。
結果は誰にも分からない。
ただ幸運を祈るだけしか出来ませんでした。
実感の無さ [腕神経そう麻痺]
今の現実を認識し始めたのは、事故から数日が経ってからです。
検査と手術の連続で、考える余裕も無かったまま時が過ぎ、
折れた左腕にプレートで接合する手術も終わり、
ギブスで固められた腕の痛みと違和感が、「これは現実だ」と思い出させます。
何があったのか記憶は無いけれど、
折れた左手に、動かない右手。
身体の痛みとベットに寝かされた自分。
これだけ揃えば、嫌でも自分が重症なのが分かります。
でも実感が全然わきません。
担当の先生から現時点での治療と検査の説明を受けました。
神経の切断が疑われるが現在は原因不明。
最悪の場合は、右腕機能の全廃もありえる。
両親も呼ばれて、隣で泣かれました。
それでも、まだ重症という実感が全然ありません。
骨折なら過去に何度かやりましたし、
手術後もかなり痛みました。
痛みは自分に現実を突きつけてきます。
でも痛みも無い、何も感じない右腕には現実感がありません。
自分のコントロール外の存在で、
自分の身体の一部だとは思えませんでした。
今になって振り返ると、『未知の存在になった右腕の存在を、考えるのを放棄した』のだと思います。
もっとも、食事や洗面などの日常生活の全てを、
ギブスで固定されたままの左腕でこなす方が、現実問題として大変でしたから、
本当に「身も心も考える余裕が無かっただけ」かもしれませんけど。
バタバタしている間に退院となり、
ギブスも外れて自由に動き回れるようになったので、
今度は右腕の検査と治療の為に転院です。
結局、退院するまで自分が重症患者という実感は、ついに得る事が出来ませんでした。
退院した翌週には「左手ギブス、右腕を三角巾で吊ったままぼ姿」で登校して、
ゼミの友人たちに、見た目の凄さで『ドン引き』されたぐらいなので、
世間の基準と、自分の認識がそうとうズレていたのでしょう。
日々の暮らしの事だけで精一杯のこの頃は、
ここから先が波乱の連続になるとは、思いもしませんでした。
全てが変わった日 [腕神経そう麻痺]
1995年6月19日。
これが私にとっての「終わりの日」であり、「始まりの日」です。
この日の夜にバイクで事故に遭いました。
車道に飛び出した車の側面に突っ込み、
そのままボンネットの上を跳び越し、地面に投げ出されたらしいです。
「らしい」というのは事故当日の記憶が無いためです。
後で聞いた話をまとめると、こんな感じです。
・ノーブレーキで正面から激突。
・地面に強打、そのまま縁石まで転がる。
・飛んで転がり、飛距離は13m。
・直後に意識不明で救急搬送。
・乗っていたバイク「ZX-4」は大破・廃車。
これに乗り始めて1年くらいの頃でした。
唯一覚えているのは『世界が赤かった』ことだけ。
おそらく救急車の中で一瞬、眼が覚めたのでしょう。
意識が戻ったのは翌朝になってから。
この時点では自分に何が起こったのか分かりませんでした。
当時の私は美術系大学の3年生で工業デザイナー志望の22歳。
デッサンをしたり、デザイン画を描いたりの毎日を過ごしており、
未来に夢や希望が沢山ありました。
事故の翌日に眼を覚ました時、
ベットの上の身体が動かないのに気がづいても、
自分に何が起きているのか分かりませんでした。
何が起こったのかを知ったのは、精密検査の結果と事故の状況を聞いた後でした。
・左腕手首を骨折。
・右腕が麻痺で動かない。
・左足首と右肩の打撲。
・脊髄損傷の疑いあり。要・再検査。
説明されても理解出来ませんでした。
いや、信じたくありませんでした。
昨日までの生活が、もう二度と出来ない事。
未来への夢も希望も無くなった事。
嘘ではなく現実である事。
何も考えられません。
悲しいという感情も湧きません。
不安も恐怖も何も無い。
目の前が真っ暗な世界。
理解できたのは、ただ一つだけ。
全てが変わったという事実のみでした。